LOGIN翌朝。
美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。 駅で声をかけてきた男性。 水城さん、と呼ばれた気がした。 けれど、本人は人違いだと言っていた。 「……気にしすぎかな」 そう呟いて、ベッドから起き上がる。 スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。 当然だ。 会わないほうがいいと言われたのだから。 それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。 美咲は小さく息を吐いた。 「私、こんなに寂しがりだったっけ」 自分で言って、少しだけ笑う。 蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。 仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。 それで十分だった。 けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。 それが少し怖かった。 会社に着くと、いつものように仕事が始まった。 原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。 忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。 そう思っていた。 けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。 何も届いていない。 美咲は画面を伏せた。 「……連絡、しないって決めたんだから」 自分に言い聞かせる。 そのとき、同僚が声をかけてきた。 「水城さん、今日ちょっと元気ない?」 「え?」 「なんとなく。昨日もぼんやりしてたし」 「そうかな」 「もしかして、恋愛?」 突然言われ、美咲は言葉に詰まった。 「……どうしてそうなるの?」 「その反応が答えじゃない?」 笑われて、美咲も苦笑した。 「まあ……ちょっと、いろいろあって」 「喧嘩?」 「そういうわけじゃないんだけど」 何と説明すればいいのかわからなかった。 別れたわけでもない。 付き合い始めたばかりなのに、相手から距離を置かれた。 しかも、その理由を教えてもらえない。 「難しい人?」 同僚の言葉に、美咲は少し考えてから答えた。 「……優しい人」 それだけは、間違いなかった。 「優しい人ほど、難しいことあるよね」 その言葉に、美咲は返事をしなかった。 なぜか胸に引っかかった。 その頃、蓮は高瀬と向き合っていた。 人通りの少ない喫茶店。 昼間でも店内は静かだった。 「久しぶりだな」 高瀬が言う。 「……五年ぶりですね」 「そうだな」 高瀬はコーヒーを一口飲んだ。 以前より白髪が増えている。 けれど、その目だけは昔と変わっていなかった。 真っ直ぐで、誤魔化しを許さない目。 「まず聞きたい」 高瀬が資料をテーブルに置いた。 「お前は、本当に黒崎を殺していないのか」 蓮は黙っていた。 やがて、静かに答える。 「殺していません」 「……なら、なぜ逃げた?」 その質問には、すぐに答えられなかった。 「現場に、俺以外の人間がいたからです」 高瀬の表情が変わった。 「誰だ?」 蓮は目を伏せる。 「それは言えません」 「五年経ってもか」 「……はい」 「そいつを庇うために、証拠まで隠したのか」 蓮は答えなかった。 その沈黙が、答えだった。 高瀬は深く息を吐く。 「お前は、自分がどう見えるかわかっているのか?」 「わかっています」 「殺してはいない。でも、逃げた。証拠も隠した。警察にも嘘をついた」 「はい」 「それでも、何も言わないのか」 蓮はしばらく黙っていた。 「……守らなければならない人だと思ったんです」 「その結果、お前自身が疑われた」 「それでもです」 高瀬は何も言わなかった。 しばらくして、資料を一枚取り出す。 「実はな。最近、当時の倉庫周辺の監視記録が見つかった」 蓮が顔を上げる。 「監視記録?」 「ああ。正式な捜査資料には残っていなかった」 高瀬は資料を蓮の前に置いた。 「五年前、事件当日の夜。倉庫の近くを走っていた車が映っている」 蓮は写真を見た。 暗い道路。 一台の車。 そして、その時刻。 「……この時間」 蓮の顔から血の気が引いた。 「覚えているか?」 「はい」 あの日。 自分が倉庫から逃げた直後の時間だった。 「この車が、事件に関係している?」 高瀬は首を横に振った。 「まだわからない。ただ、当時の捜査では、この車の存在そのものが確認されていない」 蓮は写真を見つめた。 五年前、自分が知らなかったもの。 捜査で見落とされていたもの。 もし、この車が事件と関係しているなら。 あの日、何が起きていたのか。 少しだけ見えてくるかもしれない。 「……高瀬さん」 「なんだ」 「これを、調べるつもりですか」 「そのためにお前を呼んだ」 高瀬は真っ直ぐに蓮を見る。 「ただし、俺はお前を無実の人間にするために調べるんじゃない」 蓮は黙って聞いていた。 「お前が何をしたのかも含めて、全部明らかにする。その覚悟があるなら協力しろ」 長い沈黙のあと。 蓮は頷いた。 「……わかりました」 「逃げるなよ」 「はい」 その返事に迷いはなかった。 仕事を終えた美咲は、駅へ向かっていた。 昨日と同じ道。 昨日と同じ時間。 けれど今日は、何となく周囲を気にしてしまう。 後ろを振り返る。 誰もいない。 気のせいだ。 そう思って歩き出したところで、スマートフォンが震えた。 知らない番号からのメッセージだった。 『蓮のことを忘れてください』 美咲の足が止まる。 心臓が大きく跳ねた。 誰なの。 どうして、蓮のことを知っているの。 指先が震える。 しばらく画面を見つめたあと、もう一度メッセージが届いた。 『あなたには関係のないことです』 美咲は息を呑んだ。 関係ない。 その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かが切れたような気がした。 蓮も同じことを言っていた。 ──あなたには関係ない。 ──知ってほしくない。 ──傷つくかもしれない。 美咲はスマートフォンを強く握った。 「……関係ないって、何?」 誰にも聞こえない声で呟く。 怖かった。 正直に言えば、今すぐ逃げたい。 蓮が何を抱えているのか知らない。 自分が知らない過去がある。 そして、それを知っている誰かが、自分に近づいてきている。 それでも。 美咲は画面を閉じなかった。 蓮のことを何も知らないまま、ただ離れることだけはしたくなかった。 「……私だって、知るくらいはできる」 そう呟いた。 その言葉が、自分自身への決意なのか。 それとも、誰かへの返事なのか。 美咲にはまだわからなかった。 ただ一つ。 蓮が隠している過去が、自分の知らないところで動き始めている。 そのことだけは、はっきりと感じていた。スマートフォンの画面に、一件の通知が表示された。『話したいことがあります』蓮は、その文字をしばらく見つめていた。美咲からだった。胸の奥が、静かに痛む。連絡をしないようにしていた。彼女から離れることで、危険から遠ざけられると思っていた。それなのに、美咲のほうから連絡が来た。しかも。「話したいことがあります」その言葉が、頭から離れない。蓮は一度、画面を閉じた。返事をしなければならない。そう思う一方で、何を返せばいいのかわからなかった。今までのように、曖昧な言葉で逃げることはできない。けれど、本当のことを話せば、美咲を危険にさらすかもしれない。迷った末、蓮は短く入力した。『わかりました。会いましょう』送信する。すぐに既読がついた。そして、少しして返事が来る。『ありがとうございます』それだけだった。蓮はスマートフォンを置いた。「……ありがとう、か」その言葉が、妙に胸に刺さった。二人が会うことになったのは、以前一緒に行った小さな喫茶店だった。夕方。
美咲は、自宅に帰ってからもスマートフォンを手放せなかった。画面には、あのメッセージが残っている。『蓮のことを忘れてください』短い文章だった。それなのに、何度読んでも胸の奥が落ち着かない。誰が送ってきたのか。どうして自分のことを知っているのか。そして何より。どうして、蓮のことを忘れろと言うのか。美咲はソファに座ったまま、蓮とのメッセージ画面を開いた。最後に会った日のことを思い出す。「僕と一緒にいると、あなたが傷つくかもしれない」あのときの蓮は、いつもの穏やかな表情ではなかった。何かを恐れていた。美咲には、そう見えた。「……やっぱり、何かあるんだ」今までは、蓮が話したくないなら無理に聞かなくてもいいと思っていた。過去には誰にだって触れられたくない部分がある。自分にもある。だから、待つつもりだった。いつか蓮が話してくれるまで。けれど。もう「待っているだけ」ではいられなかった。知らないところで、自分にまで警告が届いた。それはもう、蓮一人の問題ではない。美咲はスマートフォンを置いた。そして、ノートパソコンを開いた。
翌朝。美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。駅で声をかけてきた男性。水城さん、と呼ばれた気がした。けれど、本人は人違いだと言っていた。「……気にしすぎかな」そう呟いて、ベッドから起き上がる。スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。当然だ。会わないほうがいいと言われたのだから。それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。美咲は小さく息を吐いた。「私、こんなに寂しがりだったっけ」自分で言って、少しだけ笑う。蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。それで十分だった。けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。それが少し怖かった。会社に着くと、いつものように仕事が始まった。原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。そう思っていた。けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。何も届いていない。
「五年前、お前は何を見た?」 電話の向こうから聞こえた高瀬の声が、蓮の耳に残っていた。 「なぜ、証拠を隠した?」 答えられないまま、蓮はスマートフォンを握りしめた。 五年前。 その言葉を聞くだけで、胸の奥にしまい込んでいた記憶が引きずり出される。 あの日の雨。 濡れた道路。 黒崎誠一の会社の裏口。 そして、開いたままになっていたドア。 蓮は目を閉じた。 忘れたことなど、一度もなかった。 ただ、忘れたふりをしていただけだ。 「……今さら、何が出てきたんだ」 独り言のように呟く。 高瀬は詳しいことを電話では話さなかった。 ただ、新しい証拠が見つかったこと。 そして、それによって当時の捜査を見直す必要が出てきたこと。 最後に、高瀬はこう言った。 「近いうちに会う。今度は、全部話してもらうぞ」 通話が切れる。 蓮はしばらく画面を見つめていた。 頭に浮かんだのは、事件のことではなかった。 美咲の顔だった。
週が明けた。美咲はいつも通り出社した。けれど、いつも通りではないことが一つだけあった。蓮から連絡が来ない。昨日も、その前の日も。これまでなら、短いメッセージが一つくらい届いていた。《今日は遅くなりそうです》《ちゃんと帰れましたか?》そんな何気ない言葉だった。それがなくなっただけなのに、美咲はスマートフォンを見る回数が増えていた。「……何を期待してるんだろう」自分に呆れながら、画面を伏せる。仕事に集中しよう。そう思っても、なかなか頭が切り替わらない。昼休みになっても、通知はなかった。美咲は小さく息を吐いた。忙しいのかもしれない。そう思えばいい。それなのに、胸の奥には小さな不安が残った。その日の夜。仕事を終えて会社を出たところで、スマートフォンが震えた。画面には、蓮の名前。美咲の胸が跳ねる。《少し会えませんか》短いメッセージだった。《今からでも大丈夫です》すぐに返信する。待ち合わせ場所に指定されたのは、駅から少し離れた公園だった。
翌朝。美咲はいつもより少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨日のことを思い出す。蓮と話した。それだけなのに、胸の奥がまだ温かかった。好きな本の話をした。休日の過ごし方を聞いた。くだらない話で笑った。たったそれだけの時間が、思っていた以上に嬉しかった。スマートフォンを手に取る。蓮から連絡が来ていないか確認してしまい、美咲は苦笑した。「……私、いつからこんなになったんだろう」まだ恋人ですらない。それなのに、少しずつ蓮の存在が日常の中に入り込んできている。嫌ではなかった。むしろ、嬉しいと思っている。だからこそ、美咲は少し怖かった。また誰かを好きになってしまうことが。その日の昼休み。美咲が会社の近くのコンビニへ向かっていると、スマートフォンが震えた。画面を見る。蓮からだった。《今日、仕事は遅くなりますか?》思わず頬が緩む。《たぶん七時くらいです》すぐに返信が来た。《もしよければ、夕食でもどうですか》美咲は数秒、画面を見つめた。







