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第8話  関係ないなんて言わないで

last update publish date: 2026-09-20 19:00:32

翌朝。

美咲は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。

カーテンの隙間から差し込む光をぼんやり眺めながら、昨夜のことを思い出す。

駅で声をかけてきた男性。

水城さん、と呼ばれた気がした。

けれど、本人は人違いだと言っていた。

「……気にしすぎかな」

そう呟いて、ベッドから起き上がる。

スマートフォンを確認しても、蓮からの連絡はなかった。

当然だ。

会わないほうがいいと言われたのだから。

それでも、画面を開くたびに期待してしまう自分がいた。

美咲は小さく息を吐いた。

「私、こんなに寂しがりだったっけ」

自分で言って、少しだけ笑う。

蓮と出会う前は、一人の時間をなんとも思わなかった。

仕事をして、本を読んで、休日には好きな店へ行く。

それで十分だった。

けれど、誰かと一緒に過ごす時間を知ってしまうと、以前と同じには戻れない。

それが少し怖かった。

会社に着くと、いつものように仕事が始まった。

原稿を確認し、編集部内で打ち合わせをする。

忙しくしている間は、蓮のことを考えずに済んだ。

そう思っていた。

けれど、昼休みになった途端、スマートフォンに目が向いてしまう。

何も届いていない。

美咲は画面を伏せた。

「……連絡、しないって決めたんだから」

自分に言い聞かせる。

そのとき、同僚が声をかけてきた。

「水城さん、今日ちょっと元気ない?」

「え?」

「なんとなく。昨日もぼんやりしてたし」

「そうかな」

「もしかして、恋愛?」

突然言われ、美咲は言葉に詰まった。

「……どうしてそうなるの?」

「その反応が答えじゃない?」

笑われて、美咲も苦笑した。

「まあ……ちょっと、いろいろあって」

「喧嘩?」

「そういうわけじゃないんだけど」

何と説明すればいいのかわからなかった。

別れたわけでもない。

付き合い始めたばかりなのに、相手から距離を置かれた。

しかも、その理由を教えてもらえない。

「難しい人?」

同僚の言葉に、美咲は少し考えてから答えた。

「……優しい人」

それだけは、間違いなかった。

「優しい人ほど、難しいことあるよね」

その言葉に、美咲は返事をしなかった。

なぜか胸に引っかかった。

その頃、蓮は高瀬と向き合っていた。

人通りの少ない喫茶店。

昼間でも店内は静かだった。

「久しぶりだな」

高瀬が言う。

「……五年ぶりですね」

「そうだな」

高瀬はコーヒーを一口飲んだ。

以前より白髪が増えている。

けれど、その目だけは昔と変わっていなかった。

真っ直ぐで、誤魔化しを許さない目。

「まず聞きたい」

高瀬が資料をテーブルに置いた。

「お前は、本当に黒崎を殺していないのか」

蓮は黙っていた。

やがて、静かに答える。

「殺していません」

「……なら、なぜ逃げた?」

その質問には、すぐに答えられなかった。

「現場に、俺以外の人間がいたからです」

高瀬の表情が変わった。

「誰だ?」

蓮は目を伏せる。

「それは言えません」

「五年経ってもか」

「……はい」

「そいつを庇うために、証拠まで隠したのか」

蓮は答えなかった。

その沈黙が、答えだった。

高瀬は深く息を吐く。

「お前は、自分がどう見えるかわかっているのか?」

「わかっています」

「殺してはいない。でも、逃げた。証拠も隠した。警察にも嘘をついた」

「はい」

「それでも、何も言わないのか」

蓮はしばらく黙っていた。

「……守らなければならない人だと思ったんです」

「その結果、お前自身が疑われた」

「それでもです」

高瀬は何も言わなかった。

しばらくして、資料を一枚取り出す。

「実はな。最近、当時の倉庫周辺の監視記録が見つかった」

蓮が顔を上げる。

「監視記録?」

「ああ。正式な捜査資料には残っていなかった」

高瀬は資料を蓮の前に置いた。

「五年前、事件当日の夜。倉庫の近くを走っていた車が映っている」

蓮は写真を見た。

暗い道路。

一台の車。

そして、その時刻。

「……この時間」

蓮の顔から血の気が引いた。

「覚えているか?」

「はい」

あの日。

自分が倉庫から逃げた直後の時間だった。

「この車が、事件に関係している?」

高瀬は首を横に振った。

「まだわからない。ただ、当時の捜査では、この車の存在そのものが確認されていない」

蓮は写真を見つめた。

五年前、自分が知らなかったもの。

捜査で見落とされていたもの。

もし、この車が事件と関係しているなら。

あの日、何が起きていたのか。

少しだけ見えてくるかもしれない。

「……高瀬さん」

「なんだ」

「これを、調べるつもりですか」

「そのためにお前を呼んだ」

高瀬は真っ直ぐに蓮を見る。

「ただし、俺はお前を無実の人間にするために調べるんじゃない」

蓮は黙って聞いていた。

「お前が何をしたのかも含めて、全部明らかにする。その覚悟があるなら協力しろ」

長い沈黙のあと。

蓮は頷いた。

「……わかりました」

「逃げるなよ」

「はい」

その返事に迷いはなかった。

仕事を終えた美咲は、駅へ向かっていた。

昨日と同じ道。

昨日と同じ時間。

けれど今日は、何となく周囲を気にしてしまう。

後ろを振り返る。

誰もいない。

気のせいだ。

そう思って歩き出したところで、スマートフォンが震えた。

知らない番号からのメッセージだった。

『蓮のことを忘れてください』

美咲の足が止まる。

心臓が大きく跳ねた。

誰なの。

どうして、蓮のことを知っているの。

指先が震える。

しばらく画面を見つめたあと、もう一度メッセージが届いた。

『あなたには関係のないことです』

美咲は息を呑んだ。

関係ない。

その言葉を見た瞬間、胸の奥で何かが切れたような気がした。

蓮も同じことを言っていた。

──あなたには関係ない。

──知ってほしくない。

──傷つくかもしれない。

美咲はスマートフォンを強く握った。

「……関係ないって、何?」

誰にも聞こえない声で呟く。

怖かった。

正直に言えば、今すぐ逃げたい。

蓮が何を抱えているのか知らない。

自分が知らない過去がある。

そして、それを知っている誰かが、自分に近づいてきている。

それでも。

美咲は画面を閉じなかった。

蓮のことを何も知らないまま、ただ離れることだけはしたくなかった。

「……私だって、知るくらいはできる」

そう呟いた。

その言葉が、自分自身への決意なのか。

それとも、誰かへの返事なのか。

美咲にはまだわからなかった。

ただ一つ。

蓮が隠している過去が、自分の知らないところで動き始めている。

そのことだけは、はっきりと感じていた。

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